インタビュー

—『焼肉ドラゴン』は2008年に演劇作品として産声を上げたものです。その始まりからお話を伺えますか。

この作品は新国立劇場10周年、韓国の芸術の殿堂(ソウル・アート・センター)20周年を記念し、両劇場で共同制作を行うシリーズの第二弾として企画されたもの。僕の名前を出してくれたのは韓国側の方たちだと聞いています。
日韓合作ということを考えた時、「自分の出自である在日韓国人についての物語を書こう」とすぐ思い至りました。それも、日韓の狭間で時と共に忘れ去られていくであろう人たちを主軸に据えようと。父が日本人の知人から買った国有地(姫路城址の一角)に住んでいたことなど、僕自身と家族の話も盛り込んだのはそのためです。
日韓共に派手なキャスティングだった訳でもないのに、開幕後はあれよあれよと動員が増え、後半はチケットの争奪戦が起きるほどで。

―あの熱狂は凄まじいものでした。ご自身はどう感じられていたのでしょうか。

記憶に鮮明なのは、反響よりも創作過程の大変さです(笑)。スタッフ・俳優共に日韓混成チームでしたが、僕も驚いたのが、日本人以上に韓国チームに在日に対しての知識がなかったこと。教科書にも出てこないことですから仕方ありませんが、韓国チームの中での在日像は極端な富裕層か貧困層のイメージしかなくて、彼らの“普通の暮らし”を知ってもらうことから始めなければいけなかった。結局、韓国の演出家・梁正雄との共同演出という形になり、作品の責任を負う立場になりました。

―1970年代が舞台の『焼肉ドラゴン』を挟み、鄭さんは『たとえば野に咲く花のように』(07年)では朝鮮戦争の特需に沸く九州の港町のダンスホールを、続く『パーマ屋スミレ』(12年)では廃鉱に揺れる同じ九州の炭鉱労働者の家族を題材にしています。この三作は日本の現代史、その種々の転換点と時代に翻弄される人々を描く、鄭さんの近年の仕事の土台となる大切なものに思えます。

日本で生まれ、教育を受け、日本語で物語を紡いでいる僕はまぎれもなく日本の作家です。だから『焼肉ドラゴン』も主人公は在日の家族ですが、舞台も映画も日本の物語の系譜にあると僕は認識しています。特に最近は、年一本は韓国でも演出させてもらう機会がある。結果、余計に自分の出自は日本にあり、そこで創作をしているのだという意識も強くなりました。生まれと環境に培われた、今の僕を成した感性からは逃れようがない。挙げていただいた三作は、そのことを再認識する過程に生まれたものなのだと思います。

―『焼肉ドラゴン』の話に戻ります。戯曲執筆時にはどのような取材を行ったのでしょうか。

当時はまだ、伊丹空港の周辺に僕の子供時代同様に在日の方々が住む家が残っていて、その方たちに70年代の話を伺いました。最近はどんどん、そういった在日の方が肩寄せ合って暮らす場所が関西でも東京でもなくなっている。行政としては、国有地を不法占拠している訳だから立ち退かせたくて仕方ない。行政の担当者が「国有地は売り買いできません」と言っても、僕の父は「醤油屋の佐藤さんから買った」の一点張りで、担当者がひどく困っていたのをよく覚えていますし(笑)、作品の中でそのまま、龍吉のエピソードに使いました。
記憶の中からさえも消えていく、そんな場所や人を記録したいという想いから始まったのが『焼肉ドラゴン』であり、『たとえば~』と『パーマ屋~』も含め、後に三部作と言われる作品群だと思っています。

―今回が映画監督デビューとなりますが、鄭さんは、もともと映画の仕事に就きたいという意志を持って上京されたのですよね?

同志社大学を中退したあと、ブラブラしながらひたすら映画を見続けた時期があるんです。「スクリーンの向こうの世界に行きたい」と思い定め、横浜の、当時の放送映画専門学院(現・日本映画大学)で勉強したあと、松竹大船撮影所に勤めて装飾助手、美術助手で働きました。そのあと劇団黒テントに入ったので、はじめは自分が演劇をやるなんて思っていなかった。

―とはいえ演劇活動の傍ら脚本家として映画に携わり、『月はどっちに出ている』(93年)での毎日映画コンクール脚本賞やキネマ旬報脚本賞、『愛を乞う人』(98年)での日本アカデミー賞最優秀脚本賞、アジア太平洋映画祭最優秀脚本賞など、多くの映画賞も受賞していらっしゃる。
演劇と映画、これまでほぼ並行して続けてきたんです。しかも『月は~』と同じ93年に、演劇でも『ザ・寺山』で第38回岸田國士戯曲賞をいただいて。最初は、演劇の現場では「映画の仕事をしてる人」と呼ばれ、映画の現場では「演劇やってる人」と言われるという、中途半端な立場が楽だと感じていた(笑)。でも映画と演劇で同時に賞をいただいてしまったので、神様が「二足の草鞋で行け!」と言っていると思うことにしたんです(笑)。 
―不本意だったんですか?
(笑)いやいや違いますよ! 僕自身はそんな祀り上げられるような人物ではないし、好き勝手やってきただけですから。 映画も演劇も大好きで、最初は趣味だったものが仕事になったのはとても幸せなことですし、そのうえ自分の仕事の両輪として動かし続けられるなんて本当に恵まれている。今は、二つを無理に区切る必要はないし、映画の神様が「ここに居ていいよ」と言ってくれているのかな、くらいに思っています。
―映画だけに追加されたシーンもいくつかあります。

時生の学校での様子や、哲男と静花が子供時代に夜の空港に忍び込み、静花が足を怪我する場面は、映画版に入れたいと最初から思っていました。どちらもロケ撮影ですが、今作は多くが焼肉店のある集落のセットでの撮影で、ロケで空間も自由度も広がったシーンとのバランスをどう取るかには腐心しました。
もう一つ、ラストは演劇版を踏襲しつつ、映画でしかできないちょっとしたスペクタクルになっていますので、舞台を観た方にも楽しみにしていただきたいと思っています。



―キャストの豪華さも映画版の売りの一つかと思います。撮影時の、俳優陣とのエピソードもお聞かせいただけますか。

撮影の後半、一日がかりで撮ったシーンをリテイクする大きな決断をした時がありました。それを伝えた瞬間に握手を求めて来たのが真木よう子さん。三姉妹が中心の場面でしたが、真木さん自身も前の演出に疑問を持っていたそうで、思ったことをキチンと言葉にしてくれる非常にサバサバした、気持ちの良い女優さんでした。
井上真央さんは“打てば響く人”。監督の要求をすぐ飲み込んで、十全に演技として表現できる素晴らしい女優さんだと思いました。劇中キスシーンがあり、井上さんのパブリック・イメージとは違うと思いつつも「ここは野獣のように積極的に」とお願いしたところ、体当たりで演じて下さった。尚且つ、井上さんらしさもちゃんと映っているんです。その女優魂に敬服しました。
大泉洋さんは11年の再演時に北九州まで舞台を観に来て下さった。純粋に作品のファンでいて下さったところでの、僕との初タッグ。哲男役では、これまでの舞台や映像作品では見たことのない大泉さんの「顔」が撮れたと思っています。
桜庭ななみさんはとにかくフレッシュ。経験値が高いとは言えないけれど、撮影が進むほど尻上がりに良くなっていき、ラストの、恋人・長谷川の妻役である根岸季衣さんとの乱闘シーンは一発OKにしてくれました。若い方の伸びしろはやはりスゴい。それは時生役の大江晋平さんにも感じたことで、とても映画初出演とは思えない存在感を発揮してくれました。
龍吉役のキム・サンホさんと英順役のイ・ジョンウンさんも素晴らしかった。サンホさんは、長い独白を何度リテイクしても完璧に台詞を操り、感情まで乗せて応えてくれましたし、ジョンウンさんは出演が決まった直後から、日本の友人を頼って焼肉店に行ってみるなど入念な準備で撮影に臨んで下さった。皆さん、新人監督をがっちり支えてくれる俳優さんでした。

―次の映画を撮るための構想、次回作の候補などはおありですか?

「映画を撮る」ということは、たくさんの幸運に恵まれないと実現しないことだと思うんです。今回はたくさんの方からの応援と幸運に恵まれて得た貴重な機会。なので「次」も、機会をいただけるなら自作・他作・オリジナルに関わらず、全力で頑張らせていただきます!
それと、 映画の仕事を始めたばかりの頃に組んでいた崔洋一監督に「世の中には幸福な映画と、幸福でない映画があるんだよ」と言われ、当時は意味がよくわからなかったんです。でもこうして実際に撮った『焼肉ドラゴン』は、とても幸福な時間に恵まれた「幸福な映画」になったと思える。そんな現場を共に作って下さったスタッフ、キャストの皆さんに今、心から感謝しています。

©2018「焼肉ドラゴン」製作委員会

PAGE TOP